ぺんぎんの生態

愛なんていくらでもばらまいてやる

ヌイグルミは捨てられないのにフィギュアは簡単に捨てられるっ!!

 

ひさしぶりにブログを更新している。この半年くらい更新していなかったけれどなにがあったというわけではなく(ちょっと大変な恋愛をしていたり、引っ越したり、プチ転勤したりしていた)、ただギリギリの気力で生きていただけです。

 

正確に言うと、何も書かないと死んでしまうのでいっぱい書いてはいたんだけれど、ぜんぶ下書きに入れていた。ただ書くことと、放出することは別のエネルギーが必要なんですね。

 

自分の状況というのは自分では面白いくらい分からないもので、まわりの人にいっぱい心配されていたのに無視しててすみませんという気持ち、こんなクソの吐き溜めをいつも見てくれてるひとしか気づいてなかったと思うのでここにごめんねって書いておきます。

 

                                               🛸

 

きょうは仕事中ヌイグルミのことが頭から離れなかった。


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↑写真で共演もしてる

 

いや、きょうに限ったことではなく、ヌイグルミがめちゃくちゃ好きで、家にいるあいつらのことはよく考えている。

寝る前にベッドサイドにいるヤツが、変な格好で転がってたりすると可愛くて笑ってしまうし、嫌なことがあったときは話聞いてもらうし、アラサー独身OLの日常ってこんなかんじですけどみんなもきっとそうですよね……?

 

小さい頃からヌイグルミに対する愛がつよくて、オナニーするときはヌイグルミを戸棚に隠したり(見られたくないから)、平等に愛せるように「一緒に寝る順番」を表にしたり、ときどき(こっそり)学校にも連れて行ってた。

 

大人になってもセックスとかやっぱり「見られちゃった~(照)」という気持ちにはなるし、見られたついでにとおもって彼が帰ったあとに、「ねえ新しいボーイフレンドどうおもう?」とかヌイグルミに聞いてみたりしてる。

 

かなり大きい子をサイズの問題で手放すことになったときは、メルカリで大事にしてくれそうな貰い先を必死で探した。

ゴミ袋にいれて捨てることなんて絶対できない。

 

 

なんとなく、「生命(とほぼおなじ)だから」特別で大切なんだって思ってたけど、なにが生命とおなじだよ、生きてねーじゃん、ともおもう。「目」があって、生き物のような形状のものは、ぜんぶ特別で大切かといえば、違う。すこし、かんがえる。

 

                                                🧋

 

(1)美少女フィギュア

 

で、それがきょう考えていたことなんだけど、だって、わたしは美少女アニメフィギュアは適当にポイポイっとゴミ袋に入れて捨てるのです。

 

ヌイグルミは、手に入れるときもさんざん悩んでから覚悟を決めて手に入れる。でもフィギュアは何も悩まないで、あっいいな欲しい買っちゃお!って感じ。で、邪魔だし捨てるか!となる。

 

硬いとか柔らかいとかそんなに自分にとって重要ポイントなのか?と思うと意味不明だ。一緒に寝るかどうか?

 


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→捨てる

 

                                                  🦖

 

(2)リカちゃん人形、シルバニアファミリー

 

では、リカちゃん人形はどうだろう。シルバニアファミリーは?

それはもう絶対捨てられない!

 

硬いのに!

 

硬いけど捨てられない。

 


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→捨てられない!

 


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→捨てられない!

 

当たり前なのです。

 

 

(3)ミッフィーちゃん

 

なんとなく分かってきた。ところでキャラクターグッズ、例えばミッフィーちゃんはどうだろう。

 

こういう…


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うーん、微妙だ。捨ててもいい気がする。

 

これなら間違いない、


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捨てられる!

 

 

 キャラクターグッズ→微妙

 機能的なやつ→捨てる

 

 

                                               🚀

 

 

もうわかったし、わかったことによって辛くなった。大事なのは、わたしが愛してるヌイグルミたちは愛される以外に価値がないということ。

 

柔らかいとか硬いとか関係ない。持ってることを誰かに自慢したくなるフィギュアも、部屋を照らしてくれるインテリアも、ブランド的な価値をもっているキャラクターグッズも、その用途のための道具だ。要らなくなった道具はゴミだから、ゴミ袋に入れて捨てる。

 

愛される以外に価値がないあいつらは、だって愛されるために存在しているから、わたしが愛するのをやめたら、どうなってしまうのか分からない。わたしが小さい頃愛していたヌイグルミたちのなかにも、いつの間にか忘れてしまった子たちがたくさんいる。どこに行ったのかどうなったのか何も知らない。

 

いつの日か消えちゃうんですね。ゴミになることもできないので。

 

 

                                              ⛈️

 

で、

考えてみたらやっぱり生命なんです。

 

だって愛されたいじゃん、愛されるためだけに愛されたいじゃん。

 

「ヌイグルミみたいに愛されたいなあ」とヌイグルミに向かって話しているアラサー独身女の図がここに完成したところですが、承認欲求まみれで自撮りとかしてツイートしてる私は、やっぱり誰かの欲求を満たすための道具じゃないか、とおもう。

 

コイツ俺の女だよって他人に自慢したがりな元カレに私はブチ切れていたけど、自分から道具になりさがっておいて何言ってんのって感じだ。

 

フィギュアみたいに、ミッキーマウスみたいに、自分の価値を提示しておきながら、それでいてヌイグルミみたいに愛されたいだとか、なんて我儘なんだろう。

 

でも何の目的もなく、好きって言われたいよね。きみがヤレるかどうか計算しながら、そしてわたしの好感度を探りながら、好きって言ってくれるのはちゃんと分かっているよ。仕方なくありがとうって返してるけど、私はなにもありがとうって思ってないので、ありがとうって嘘をつくことで心が死んでいきます。嘘をつくのは苦手だ。

 

                                                       🧠

 

ヌイグルミのことを考える。

 

どこで生まれたんだろう、タグに書いてある、メイド・イン・チャイナ。工場だ。誰かが企画して、デザインして、材料を選んで、作られている。つぶらな瞳、この目をすれば愛されるって計算されている。それは残念なことじゃない、ヌイグルミだってちゃんと経済の一部で、愛されるのがとてつもなく上手いだけで、意図的に作られた道具で、それは、残念なことじゃない。

 

いいんですよ、そんなことは。

 

ヌイグルミがオトナによって作られた道具だとしても、やっぱりヌイグルミのことを愛さずにはいられない。だって、愛されるためだけに愛されるべき存在なのは変わらないから。

わたしが承認欲求まみれの人間であるということも、承認欲求が隠れるように丁寧に加工を重ねた表現をしている強欲なフィギュアであることも、ぜんぶ見透かしてほしい、ぜんぶ見透かしたうえでヌイグルミみたいに愛してほしいな、とおもう、もうフィギュアでもなんでもない、何重にも重なった自意識と自己愛にがんじがらめの化け物です。わかってるよそんなこと!気持ち悪い!気持ち悪い!

 

「ぺんぎんちゃんは理想が高いから、いつまでも淋しい淋しいって言ってるんじゃない?」とアドバイスをくれた人は、じゃあ、わたしの淋しいを埋められるの?フィギュアのように愛されたって、やっぱり埋められなかったのです。

 

 

                                      🍹🍹🍹

 

 

わたしのブログってこんなんだったっけ。

最後にすきな曲貼ってたはず!

teddy bear

teddy bear

 

 

おやすみ。じつは最近はあんまり淋しくないよ。